「よこしまな時代のために」 03−08−03
ルカ9:37〜45
<なんと信仰のない、よこしまな時代なのか>との主の嘆きは、今の時代にも
響いています。人の世のよこしまさは、昔も今も形を変えて表れてくることです。
その日、悪霊によって苦しんでいる大切な息子を救ってもらおうと、父親が
やってきました。主は、祈るために山に登っておられ、不在でした。そのため父親は、
弟子たちに助けを求めましたが、弟子たちには助けることはできませんでした。
弟子たちは、悪霊を追い出し、癒すことをした事はありましたが、その時は無力でした。
マルコ福音書9章によれば、弟子たちに祈りが欠けていたからかも知れませんし、
議論に夢中になっていたからかも知れません。いずれにしても、息子を愛する父親も、
主の弟子も、周りの群衆も、みんな無力でどうする事も出来ないでいたのでした。
しかし、そのよこしまな場所に、主は山から下りておいでになります。主がおいでに
なる時、信仰のない、よこしまな場所が、そうではなくなってしまうのです。
人が無力差を痛感するしかない場所でも、主の恵みの力は無力とはならず、力は
発揮されるからです。私たちは、信仰なく、よこしまな時代の中でも、恵みの力を
発揮させる主イエスを知らされているのです。そのような主を知っている以上、
希望を失う必要はありません。よこしまな曲がった現実を見せつけられる現代に
おいて、どんなに人の無力さや罪深さを痛感しても、主の恵みの力に希望を
もち続けることができるのです。
主は、この時ご自分の十字架の死を予告されました。主は、後に十字架にかかる
ことで、弟子たちのふがいなさを取り除いてしまわれます。その十字架の出来事に
よって、「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければ
ならないのか」との言葉を、「わたしは喜んで、あなたと共に、いつまでもいよう」
との言葉に変えてくださったのです。
そのような主を知るゆえに、どんな時代の中であっても、主の恵みの力を信じて、
希望を失いません。また、希望は失望に終わらないことも信じています。